17世紀にイギリスで産業的な改革が起こってから、地球の資源は急速に減少の一途を辿った。特に、この200年間に消費した森林や鉱物などの資源は、それまでの消費速度の
100倍にも当たるといわれている。
引き替えに、産業技術の革新と進歩で世の中は便利になった。国際間の移動交通時間も飛躍的に短縮された。昔なら船で40日もかかった日本―パリ間の移動も、今だと最新のエアバスを使えば10時間あまりで着いてしまう。
「できるだけ早く着きたい。楽して外国に行きたい」―― その気持ちは誰も咎められるものではなかったはずだ。便利になるということは人々の暮らしも豊かになり、みんなも喜ぶのだからと、そう信じてきたのだ。
だが、人々が望んだ「便利さ」は、「スピード」というフィールドを作りだし、時代自体を加速させはじめたのだ。その結果、何が起こったのか? 燃料消費の増大や森林・鉱物などの資源消失はさることながら、人間の心にもスピードのフィールは働きかけていたのだ。『生産効率』という言葉がそれである。
もともと産業革命や技術開発は、辛い単純作業を機械が行うことで人間を助けようとして発生したものだった。人の手だと1日に紙コップ100個、10日で1000個を作るのが精一杯だったのが、機械が変わってくれたおかげで1日1000個できるようになった。
それなら、10日間労働したつもりで残りの9日間はもっと人間にしかできないような創造的なことに当てればよかったのだ。本来ならばその余った時間は、芸術や、遊びやボランティア活動など、より人間らしい創造的なことに費やせるはずだった。
それが「生産性」という考え方によって、1日に紙コップ1000個作れるなら、10日間続ければ1万個になると計算したときから、世界はおかしくなってしまった。
それから後はあなたが御承知の通り、文明国は「生産性」という大義名分を振りかざしてアマゾンなどの熱帯雨林を次々に伐採してきた。
地球の資源が有限であることに世界中の人が気づき出したのは、驚いたことにほんの数十年前なのだ。数百年も前にガリレオが地球が丸いひとつの惑星であるといったのに、人類はそれが枯れることのない泉だと思いこんできたのである。
現在も人類は加速を止めてはいない。それどころか、もっと速く、もっと便利にと言い続けているように思う。「生産性」の魔力は文明国から開発途上国にまで拡がっている。そうして、いつの間にか人間の多くが、生産の主人の立場から奴隷の位置にまで転落してしまっていることにさえ、気づかない。
今では、アボリジニや誇りを失っていない一部のネイティヴ・アメリカンなどの先住民だけが、人間の本来あるべきスピードを保ち続けている。彼らの「偉大なる時間」と「人の時間」が宇宙の理(ことわり)の中で動いているように。
これが「スピード」というフィールドの作りだしてきた世界である。しかし、あなたの中にもこのフィールドに気づいた存在がいる。それは、あなたのこころや肉体である。何となく以前よりもイライラすることが多くなったとか、疲れやすくなったと感じてはいなかっただろうか? そのはずである。以前はゆっくりと休んだり、物事を考えて消化できた時間をどんどん奪われてきたのだから、肉体の方も十分に回復する時間を持てないので、すぐ疲れてしまうのだ。
年輩の人たちが最近の若い人は体力が無くなったと嘆いたりするのは、この過酷なフィールドに気づいていないからだ。医者や精神分析医は、それを現代ストレスのせいであるように説明する。だが、ストレスでは何も解決しない。世界全体を覆っている巨大なフィールドの正体に気づかないかぎり、根本的な解決はできないのだ。